すべての子どもも大人も、
生きやすい社会へ

子どもは未発達だから「子ども」です

 一人ひとりの子どもには尊厳がそれぞれに備わっており、それぞれに違った「想いと世界観」があります。それは私たち大人とは全く別物であり、引き出していくことで素晴らしい才能や能力を見いだすことができます。

 適切な関わり方をすれば、自らの尊厳をしっかり感じ取ることができることから、他者との関わりの中でも、その尊厳を見いだそうとします。大人になっても、引き出してもらった大切な自分をもって、暴力は自分の人生に要らないと心に決め、他者と楽しく交わりながら、意気揚々と自らの人生を一歩一歩前だけを向いて歩んでいくことができます。

 目の前に何かしらの大きな壁が立ちふさがり、苦しむことがあっても、自分で考え、人の声を聴き、自分の意見を臆することなく表現できるので、他者の力を借りながら、目の前の問題を自ら解決することが可能です。

 自分の人生を主体者として生き抜く力が備わっている状態です。
 

適切な関わりを得られないとき

 『子どもは未発達だから「子ども」』であることを認められず、養育者との間に信頼関係を結ぶことができない子どもも多く存在します。そこには、精神的な断絶の状態が見て取れます。

 その状態での子どもへの心理的な影響は、計り知れないほど大きなものだということはわかってきています。断絶がある状態で子ども時代に養育者から学ばなければならなかった沢山のことが、まるっと受け取れていないことになります。学べていないのにも関わらず、頑張って工夫しながらみんなと同じようにとしようとしても、子どもなのでうまくいかないことがあります。それをも自己責任とし責めようとする社会の姿がありますが、それは子どもの目に心にどう映っているのでしょうか。

 暴力は暴力、愛情は愛情、きちんと分けられないことで、子どもや若者の自分の中にやむなく未自覚のまま備わった、孤立感・疎外感から、暴力を未自覚のまま受け入れたり、逆に暴力をしたりする。そして解決できない大きな社会問題に発展しています。

 解決できないのは、当然でした。心を大切にする文化を育ててこなかった環境の中で、人の心理の当たり前の流れを見ることが無かったからです。
私たち大人が作ってきたこの日本社会全体の風潮が、「無敵の人」を作っていることを、会議の中でまっすぐ見てみましょう。

サバイバーの共通する点

 現在の日本では、年間350人以上の虐待死が起きています。ということは1日に換算できてしまいます。1日に一人の割合でこの日本のどこかで不適切な関わりにより、子どもの命が奪われています。生まれたばかりの0歳児が最も多いと言われています。

 そこに何があるのか。これは亡くなった子どもに聞くわけにはいきませんから、自ら命を守るスキルを身につけ、生き残った人たちからの話に是非耳を傾けてください。そこには通常の生活の中では予想だにしない現状があります。養育者の特性ですので “たった一回だけ” ということはなく、生活の中のそこかしこに滲み出ます。洗脳とはそういうことです。それをただ「酷い!」と感じるだけでなく、その裏に何があるのか、人の心理の当たり前の流れを思いながら、その原因を想像してみてください。沢山のサバイバーの持つ真実や想いに共通するものが見えてきます。

 一つ一つの案件について考えそこから解決策を考えるのも大事ですが、例えば虐待死の「解決」を念頭に置き俯瞰して見るということをしたとき、そこには「暴力の考え方」がありました。

 誰にでもあるモラハラ性。それを大人になるまでにコントロールするスキルを学べる機会がないか、また、学べても十分でないと、目の前で起きているしつけと称した洗脳が行われている暴力の世界しか知らないところから、この「暴力の考え方」が価値観の中に根づいている。そんな子も沢山いるのです。

国の調査データに乗らない沢山の子どもたちのためにも

 自覚のないまま自分の価値観の中に根付いた、およそ自分では愛情と思っている、コントロールできなかった「暴力の考え方」から他者との関係の中に不具合を生じていきます。

「なんでそんなに怒らせるの?」
「こういう時はこうするよね」
「簡単なことだよ」
「どうしてあなたはできないの?」
「バカなんじゃないの?」
「いつ死ぬの?」

 言葉自体に優越感さえ感じる。相手にどんな残酷な心理的な影響を与えるか考えることも無く。それは自分が受けたことの裏返しではありますが、無自覚のまま徐々にエスカレートし、それが威圧的であれば、受けた側はすぐに気づくこともあるかも知れません。しかしながら既に洗脳されていれば気づくことさえ難しい。やがて「自分が悪いからなんだ」と思い込み、心を閉ざし孤立感を強く抱えます。

 「やられるのは自分が悪いからなんだ」と思い込むことは、これ以上逃げられない中での自分の命を守るために備わるスキルの一つですが、これを自ら自覚なく子どもが生み出さなければ生き抜いてこれなかったことに是非注目をしていただければと思います。それは人にとってとても自然な流れなのです。

 例えばいつも笑顔で自分のことは話さず、成績も良い、何の問題もない子ほど、洗脳による解離状態のために表現できない状態にあるかもしれない、潜在意識の奥から助けを求めているかもしれないという想いで、子どもたちを見つめています。そのような国の調査データに乗らない、でも確実に暴力の影響を受け、見過ごされたまま高齢者になるまで自己責任とされる生きづらさの中生きることを強いられるリスクから、遠ざけたいと思っています。見えない傷を涙をいつも見たいと思います。なぜなら、私が子ども時代にそういう子だったから。高齢者になるまで生きづらさの中解離状態で「自分が悪い」と思い続けていたから。もう少し続いたら、私の一生の中に自分の心の健康を感じることは無いまま、命を閉じるところでした。

 現在様々な形で支援が行われていますが、私は成るべくしてなった心理職という立場で、不適切な環境で一番多いはずの私と同じような子どもたちに想いを馳せながら、日本全体の心理教育に力を入れていきたい。そのために賛同してくれる仲間を集めたい。

表現できない心の奥の「助けて」

 日本人の多くが実は苦手とする[暴力]と[愛情]

それぞれに対する確実な認識、そしてその二つの境界線をしっかり引く。

それを焦らず丁寧にサポートしていくことで、自らの尊厳を獲得する。

自分軸とは何かを知ることで他人軸で苦しんだ過去を自らの想いと力で切り離す。

まずは自分が大事。を知る。とことん大切にする。とことん大切にされる。
そうしたら、他者をも大切な存在だよね、の気持ちが湧き上がってくる・・・

私もそうですが、「指示が入らない」特性のあった障害のある私の我が子も、それを証明してくれています。


そこをすべての子どもと大人を対象に是非丁寧にやっていきましょう。
これは例えばテキストだけを渡しても、個人の力だけでは難しいことは、心理職であれば誰でもご理解いただけると思います。

もうこれ以上先延ばしにする理由がどこにありますか。

子どもたちはたった今も、暴力を受けている自覚もできないまま微笑みを見せながら、表現できない心の奥にある「助けて」という苦しみの中生きている子も沢山います。
救いあげることができるのは、私たち大人です。


The Past Leads To The Mirai
自覚未自覚関わらず、既に愛着障害を抱え生きている大人も沢山います。
抑圧は、永遠に心をコントロールされるものです。

現在も愛着障害による様々な後遺症で生きづらい人たちは、「甘え」ではないのは発達障害と同じです。障害認定し、国でその生活や医療費などの負担をしていくことも必要と思います。愛着障害と発達障害の判断は、医師でも難しいとも言われています。

自己責任とされるからあきらめの中、何もかも空回りする感覚を色んな言葉で打ち消して無かったことにしても、

*仕事が続かない
*身体に力が入らない
*ひきこもる
*生活保護を受けるしかない

*生活の中の物一つを見ても、それを片付けるのか捨てるのか判断ができない

*精神疾患・人格障害と診断される
*心の支えが何もない
*誰も信用できない
*死にたい想いに支配される

*偏った考えに執着する
*仲良くしたいだけなのに「攻撃された」と言われる
*誤解されて、その誤解を解くこともできない

*窃盗を何度も繰り返してしまう。
*負けるのはわかっていて「今日は絶対」と思いパチンコに行く
*何度努力をしても、薬にまた手を出す

*アイツのせいで自分の人生はダメになった。殺さなければと思う
*自分を怒らせるから、罰を与えなければ
*何もわかってないからわからせてやる
*これくらいは「暴力」とは言わない

*男は働いて収入を得る役、女は家を守り子育てするべき。
*子どもは親の言うことを聞かなければならないし、舐められてはいけない
*妻は何度言っても家事をうまくやれないことが自分を怒らせる

*自分の不倫を無かったことにするために、何もしてない相手を加害者にして子連れで家を出よう

*子どもが言うことを聞かない
*自分の夢だった○○を子どもに託そう


様々な思いの中に、自覚のない「暴力の考え方」や「暴力の影響」による症状が潜んでいます。
こういったことを根本的に解決するために、『暴力の定義』を用い、正しく「これは暴力」「これは愛情」と分ける教育を行います。

自分が「愛情」と思っていたものが「暴力」だった、ということもあります

暴力ではなく、その反対側にある愛情を選択することが、自分の尊厳をしっかり獲得し、生きやすい道を歩んでいけることに繋がることを伝えていきたいと思っています。