2021年に、虐待防止イベントにディレクターとして参加させていただいた時に、自分主宰イベントの第1回のテーマは『児童虐待』にしようと決めていました。 

 心理研究者として社会問題に関するニュースや記事、加害者・被害者の心理に迫る講座やセミナーなど研鑽を重ねつつ、私自身や両親、弟、親戚の身近な人からその生き様に照らし合わせてきました。この数年は他団体のDV加害者プログラムで加害者教育に携わっていますが、そこでの学びや研究でも更に確信を深め、最終的には心理に関するパズルのようなものが、パタンパタンとはまり、解決策まで提示していくことが可能になりました。

何事にも「原因があって結果がある」と言います。

 極端な話に聞こえるかもしれませんが、社会問題、とりわけ連続殺人等での加害者心理に迫る時、その背景に見えるのは必ずと言ってもいいほどの確率で、無自覚な、しかも表面的にはごく一般の家庭にも見えることも多い機能不全家庭に育ち、健やかな心の育ちを支える適切な養育がなされていないし、その中でこどもたちの心理的成長は見込めないのです。 

 ですが、この状態のこどもたちが決して少なくないのにも関わらず、学校教育の中でも現在の教育の特徴から、その点を補完することが難しかったり、主体的にこどもの心の健やかな育ちへのサポートという取り組みができず、問題が起きたら承認したものについて対応するというような表面的な取り組みになっている状態です。複雑怪奇な心の問題から起きることであるにも関わらず、ヒトの心の本質を突いた教育を誰も受けられない、だからまた同じ問題を繰り返すこともあります。それは大人もこどももです。

 表面的な解決も必要です。とても大切な役割です。
 でも、表面的であるからこそ誰の心も真の意味で満たされることがありません。
 自分の心のコップの水を自分の力で満たす方法を知らない、満たしていない状態で多くは無自覚のまま他者に関わろうとすると、相手にとってはもちろん自分にとっても受け止めきれない状態を作る、いわゆるトラブルに発展することが多く、様々な事件や社会問題としてニュースとなっています。その心理状態の解説から、訴えていく必要があると考えました。

 不適切な養育がダメな本当の理由が誰の目にも明らかであること。虐待されるこどもたちを助けても助けても、個人の問題として扱うことをやめない限り、そして根本的な心理的解決がなされない限り、その問題は決して無くなることは無いと感じています。

〈否定された自分の疑問や感情を無かったことにするのが上手なために・・・〉
 不適切な養育環境や関わられ方から離れる。例えば学校教育を卒業し一人暮らしを始める。児童相談所に保護されて隔離される。としても、自分の心が無きものにされた経験とその時に受けた大きな衝撃を無かったことにしながら生き抜いてきた時に、それがトラウマ/PTSDと呼ばれるものとも気付かず、自分の中に出来上がった生きるためのサバイバルルールと共に生きる。他人軸の価値観を自分の価値観とする。

 それが他者との関係性の中で不具合をもたらす原因となり、その人の特性によってその表現が外に出る(殺人?)か、内に出る(うつ病?)かは違っているだけの話。環境によっては「自己責任」として更に追い詰められながら、そのサバイバルルールである価値観を一生涯引き摺って生きて、大なり小なりトラブルを抱えながら孤独死を遂げることもある。

〈自らの中に生まれるはずの尊厳、誰もが持つべき安全基地、がない状態〉
 人生のどこかで気付いて修正する機会を持てない人も沢山いるのです。その環境から離れたら、体の傷と同じように心の傷も一定期間を経れば癒えて、平常に戻るはずという認識は大きな間違いです。

 いわゆるこれがあってはならない孤立感から生きづらさを抱える姿であり、戦争へと繋がる価値観でもあるのです。

 自分が養育される中で見た、人間関係構築に全く役に立たない見本が、こどもであってもそれが本当は不適切と気づいているからこそ、本当は信頼し合いたい、愛し愛されたい相手であるからこそ、そこに飲み込まれるしかなかった、指示に従わざるを得なかった、そして本当の気持ちをどこかに捨ててくる、無かったことにする、というのが、ヒトの心理にはグラデーションがあり気づきにくいものですが、多くの方が抱えるものと思います。無かったことにしようとしても実際には無くならず、潜在意識の中にどんどん詰め込まれて、いつかどこかで爆発します。と共に、多くの場合幼少期で心理的な発達が止まっています。堰き止めているものを解除することで、人はまた成長を始めます。でも気づかなければそのまま一生です。これが、現在こども時代を生きる今の “こども” ではなく、過去を生きた “こども” 

 しかしながら、こども側も、大人側も、実はそのヒューマンエラーを呈している、わけではありません。社会全体がヒューマンエラーとして表現させる通念やしくみがある、いわゆるシステムエラーであるからこそ、と考えています。