前回は、パブコメ後の雑感①として、現在の家族法制での問題点について、加藤の視点から述べた。
今回は、パブコメ後の雑感②として、その歴史と改善策について、述べてみようと思う。
現行法制の歴史
現行法制は、古く明治時代の家制家父長制の考え方が元となっている。
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された明治憲法下の民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。この規定が効力を有していたのは、1898年7月16日から1947年5月2日までの48年9か月半ほどの期間であった。(Weblio辞書 から引用)
家父長制は、父系の家族制度において、家長が絶対的な家長権によって家族員を支配・統率する家族形態。また、このような原理に基づく社会の支配形態。(Weblio辞書 から引用)
日本の元号は、明治から大正→昭和→平成→令和、知らない人はいない。
家制度が規定された1898年から今年で125年。それほど長い歴史はない。
その家制家父長制は、日本が国民をまとめていくために作られたものと考えるが、その実態は上下関係を敷き、家長に支配権を与えた家族制度であった。
昭和の時代の家族のイメージや思い出は、特に中高年以上であれば、誰の中にもまだある。
優しい家長もいたかもしれないが、私は知らない。決して優しくはない家長のいる家庭も多かったと思う。それは、こういった背景が根強く日本人の精神に刻み込まれていたからに他ならない。
現行法制による現実
その実は機能不全家庭であったとしても、「ただ厳しいだけ」とされ、その厳しさは「愛情であり必要なしつけ」とされてきた。それは親も子もそう思い込まされてきた。我が家もまた、この家制家父長制から言えば、当たり前の家庭であり、これを作った政府から見れば、ごく普通であったからこそ、「機能不全」や「虐待」という言葉が言われ始めても、親にしても子にしても「いや、うちはそんな酷いことはない。ただ厳しかっただけ」という印象しかない。その実は、親も子もまた苦しい想いを強いられているのに。その「自覚がない」というのは、昨年母がその一生を終えた時にしっかりと私の中に刻み込まれた。
令和の日本人であれば、「支配って良くないよね」「誰かがひとり権限を持つことって行き過ぎたら怖いよね」ということは、薄々わかってきていることではあるが、それがどこから来るものであるかは、何も伝えられていないし、自分がその中にいたということの自覚もしない。「支配」という衝撃的な関係構築を強いられ続けて、そんなことは頭から飛んでいる状態とも言える。それだけ、その関係性は「考える」特に物事の本質を見極めて、それを追及するような能力を失わせ、異見することさえ許さない強さがあった。
何にでもグラデーションがあるが故に、また当たり前のこととして深く刷り込まれたために、「そんなことはない」と打ち消されてきた事実。
当然子どもは、この家族観の中では優先順位が一番下になることは言うまでもなく、親から与えるものが一部または全部、一方的な暴力であるにも拘わらず、愛情である当たり前のしつけであると、親も子も思わされてきた。ご自身の親が言うことやることに、何かしらの矛盾を感じたことはないだろうか。その矛盾こそ、この家制家父長制を基にする暴力的な「支配」が及ぼした影響であると考える。
このことから、現在の家族観や子ども観は、日本人の心を支配していくために、作られたものであることは、否定しがたいものだ。
多様性の理解の難しさ
日本人はすべて等しく、一律に育てられ、社会人になっても常に一律を求められ、そこからこぼれた人たちのその存在も打ち消そうとするような、考え方がどのコミュニティにも存在するのはそういうことであり、「多様性」が叫ばれて久しいが、「多様性」の本当の意味が条件付けされたところに存在するからこそ、社会的少数者(マイノリティ)を理解しきれない、配慮しきれないことが続いているのだと考える。
考えて欲しい。
そういう意味で社会的多数者(マジョリティ)は、本当に多数者なのか?一律を求められ、それに従った、自分の想いや世界観は無かったものとした、無かったものにできた能力の高い人たちが、その一律を脱ぎ捨てた時に、見える本当の自分は、多様性の中に生きる一人ひとりなのではないか?とすると、マジョリティはそもそも存在するのか?
今、その一律を脱ぎ捨てる人たちが、本当に少数ずつ増えていることは、まだ多くの人は知らない。一律を脱ぎ捨てたら、どんな自分がそこにいるのか。「作られた性格」ではなく、自身の「自分は本当に大切な存在だよね、誰からも愛されるべき人間だよね」という尊厳を取り戻すという根本解決をした末に、全くの別人になったのかと見誤るほどの変容ぶりを見せていることは、多くの方に知っていただきたいところである。加藤も、彼女も、彼も。
多様性を主張する我が子の子育て
作られた家族観、子ども観の中で、自らの多様性に気づけることは幸せなことと感じる。それは、発達障害で育てにくさの強い息子を育てた時に、「関わりにくいこの子もまた、社会に出て幸せに生きる権利がある」と信じ切ったところからの学びでもあり、我が子の愛着形成を目標とし子育てと育て直しをした、そこから、私が自分の親と築けなかった愛着関係の構築ができ、自らの尊厳を初めて獲得したことから考えるところだ。私は定型発達で、元は現在の家族観子ども観にまみれた、一律信者であった。
これらを考えると共に、私たちが本当はどんな家族観子ども観の中で育てられ、そこでできたどんな価値観で今を生きているのか、その本質を見つめて欲しい。そうしたら、現行の家族制度が、決して人に優しくはなく、社会問題に続く根本的な原因の一つになっていることが、よく見えるだろう。
なぜ今心理教育なのか
しかしながら、価値観を変える、ということは、その未来にどんな良いものがあると知っても、そう簡単にはいかない。何が暴力なのか、何が愛情なのか、暴力があるとすればその責任は100%やった側にあり、その所在が誰にどこにあるのか、ある程度明確に分け、その境界線を引けるようになることをまず初めに手を付けたいが、これは一人では到底できない。暴力と愛情、それぞれの明確なモデルが自分の価値観の中に無いからである。世代間伝達が起きる要因の一つとしてこれがある。世代間伝達とは価値観の伝達である。
人は自分の想いを伝える時に使う手段として、暴力か愛情か、実は選択している。暴力と愛情の境界線を引けないために、むやみに暴力を受け取ったり、逆にこれぐらいは暴力ではないという認識で暴力を振るう。生活の中でふとした瞬間に出る考え方や信念が、最悪の結果を招いたり、最高の瞬間となることもある。それが暴力にあたるものか、それとも愛情なのか。この一つの分析が幸せな自分を作り、家庭を創っていく。
これをあまねく人に実感してほしい。人の孤立孤独や生きづらさに唯一向き合えるものであるから、日本の社会問題の解決と予防を目的とし、日本人の幸福度指数、自殺率、ひきこもり人口、虐待死…。。。すべてに対応していく。日本全体での心理教育を私がやっていきたいと希望するものである。ひとりではできないことなので、今絶賛仲間集め中であり、広く伝えるための講座を創る作業の中にいる。
・加害者教育
・被害者教育
・心理講座+カウンセリング
・その子だけが持っているパフォーマンスを最大限に発揮させていく「こどもぶらんでぃんぐ」及びそれをベースにした親責務としての親教育
・地域の子育て家庭見守り隊教育
(加藤クミ子 spcmirai.ink@gmail.com)
すべてのこどももおとなも、生きやすい社会へ
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